少年と遺産

ども、最近ぽじてぃぶろぐさんの影響もあってか、ウルトラマンメビウスを見ております。


先日の娘。コンの夜、ヲタ仲間と飲み会した時にサブカル系の話題になったんですよ。5人中、自分も含めて4人はガンダム好きだったからもう完全に先日のアメトーク状態。一人だけわからないやつに「なんでわからんねん!」と理不尽な逆ギレをして蛍ちゃん状態にしてましたw


その時にウルトラマンの話も出たのですが、実は僕はウルトラマンはあまり詳しくない。正確に言うと僕の世代は、だと思うんです。
長い中断前の最後のウルトラマンのテレビシリーズがウルトラマン80でしたが、文字通り1980年の放送で当時3〜4歳。主人公が学校の先生だった事と最後に女戦士が出てきた事くらいは覚えているし、アルファ号ベータ号のおもちゃを持っていた事も覚えてますが、ストーリーとか覚えているはずもなく。
それ以前のシリーズについても、早朝6時とかとんでもない時間に再放送をしていたのを見ていた記憶はあるんですが詳しくは当然覚えておらず。


そうは言っても端々で結構覚えているもんなんですよね。先日、メビウスの映画版のポスターを街中で見て、載っていた星人すべての名前を言えましたし。怪獣の名前とか、深層心理にすり込まれているんでしょうねえ。


一緒に飲んでいたうち、僕より下のヤツは逆に詳しいんです。何故かというとレンタル屋で借りて見ているから。僕の世代なんかはビデオが普及してレンタル屋が出来るようになったのが小学校の高学年から中学にかけてなので、わざわざ借りて見る世代じゃなくなってるんですよね。
それは仮面ライダーにも当てはまる事で、本来一番よく見て覚えている時代がちょうどスーパー1からブラックの間なのであまり詳しくないんです。
その代わり、僕たちの世代は完全にジャンプに犯されていたからキン肉マンとか北斗の拳とかみんなめちゃくちゃ詳しいんですけどね。


まあそんなわけで、ウルトラシリーズは詳しくないけどなんとなく見ていて覚えている部分もある、という僕が話題騒然な先週のメビウスの感想を。
ってことでネタバレ注意です。


今回放送されたのは、以前ここでも触れたことがある、ウルトラシリーズ最大の問題作、帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」の続編にあたる「怪獣使いの遺産」でした。


ストーリーは割愛するとして、はてななんかを見ていると賛否両論、ただし否の方が少し多いかなという気はします。


両方なるほどと思えるような意見が多いのですが、「賛」の理由については基本的に、最後のメイツ星人ビオが握手を拒否した事に集約されているような気がします。
そのほかにもテッペイの「いきなり宇宙人が来たら誰だって怖がるから当時(30年前の事件)の町の人たちの気持ちもわかる」あたりなどに、この手の問題はきれい事だけでは片づかない、しかし時間をかけてでも解決しなきゃいけない、というメッセージを感じました。


問題は「否」の方。
まずリュウがいきなりビオを撃って話をこじれさせた件。メビウスを最初から見ているわけではないので彼の普段の行動パターンと比較してとか言うことをすることが出来ないのですが、やはりあの演出は間違いだったんじゃないかなあと。


ビオはこの後に賠償請求として無茶な要求をしています。地球側としては当然聞き入れられる問題じゃないのですが、「怪獣使いと少年」のベースとなっている主張と照らし合わせても、この「賠償請求」をもっとクローズアップしたほうが良かったんじゃないかなと思います。その上で、交渉がこじれてリュウが撃つ、とかだったらまだ自然だったんじゃないかなあ・・・・。


それから最大の問題点。子供時代の園長先生が会った「怪獣使いと少年」の良少年が明るすぎる。良少年は最後、自分を迫害し、メイツ星人を殺した地球人を恨んで、地球を脱出してメイツ星人の星に自分も行くために穴を掘り続けているわけです。
ところが「怪獣使いの遺産」では地球人とメイツ星人の友好を信じ、そのためにまず自分がメイツ星に行くと言っています。あれだけの負のオーラを発していた少年がとても健全に育っている。この点に批判が集中するのは当たり前でしょう。


ただね、逆に言うと「何故?」って思うんです。
何故、脚本家やスタッフは良少年を前向きな性格にしたのだろう?彼らは当然「怪獣使いと少年」を穴が開くほど見て熟知しているはずです。常識で考えたら良少年の目的と性格を読み間違えるはずがない。それくらい、「むくわれない」ラストだった事があの作品の特徴なわけですから。


ふと思ったのが「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」のラスト、バーニィーがアニメでは死んでいるのに、小説では助かっているというように結末が変えられた事。これは担当した小説家の「バーニィーを助けたい」という願望がそのように変更させたものと理解しています。


同じように結末が変わったのが「機動戦士Zガンダム」。TV版ではカミーユが精神崩壊したのに、映画版では非常に健全なままラストを迎えました。これも当然批判がものすごいわけですが、実際僕も富野のおっさんのワガママとしか感じる事が出来ませんでした。
どこかで読んだ受け売りだけど、なんかね、ゲームでバッドエンディングだったから今度はハッピーエンディングを迎えたかった、そんな風に富野が思った結果なだけ、そんな気がするのです。


んで、話を戻すけど今回。実際どうだったんでしょう・・・・・。


たしかに今回伝えたい事、つまり「怪獣使いの『遺産』」が何かを考えると、良少年は明るい性格で希望を持っていなければいけなかった。メイツ星人の金山さんにもらった温かい愛情と二人で過ごした楽しい日々。それを良少年が少女に話し、少女が成長して子供達に伝える。その子供達を見てビオは父の遺したものを知る事が出来、気持ちが幾分救われることによって帰っていく事が出来るわけです。


けどやっぱり「怪獣使いと少年」のラストと照らし合わせるとそのままでは無理がありますよね。
スタッフもそれを承知だったんじゃないかなあと思いますし、そこを読み取りたい。(まあそこまでして考えないといけないような地点で失敗だろって考えもあるんですがw)


で、「怪獣使いの遺産」で描かれた良少年で思い出すのは北斗の拳サウザーサウザー南斗鳳凰拳の宿命により愛する師匠を殺した哀しみから愛を棄てて悪の道を走るわけですが、最期は師匠に愛された日々とそのぬくもりを思い出し、愛に涙しながら聖帝十字陵とともに滅んでいくわけです。


もっとも、思い出すためにサウザーは自分の命を引き替えにケンシロウに教えてもらうわけで、そうとうの「きっかけ」が必要だったわけです。


良少年もなにかきっかけがあったんじゃないだろうか。そこが描かれるべきだったんじゃないかなあと言う気はします。実際、成長してからも良少年は宇宙人と噂され、差別されてた事が「怪獣使いの遺産」でも描かれていますし、それでも地球人を信じる事が出来るような前向きな性格になるにはやっぱり何かがないと話が繋がらないでしょう・・・・。
まあ、人は憎しみだけでは生きていく事は出来ませんし、何かがあってもそれは全然不思議じゃないのですが。


もう一つの考え方は、あの良少年はあくまで園長先生のフィルターを通して見たものだという事です。
つまり、「怪獣使いの遺産」は子供時代の園長先生の「誤解」が生んだ産物であるということ。


良少年に語りかける少女(子供時代の園長先生)は白のワンピースです。つまり汚れを知らない純真な心で良少年に語りかけているわけです。それはビオにハンカチを差し出す子供達にも繋がっているわけで、汚れを知らない子供達だからこそ差別をしない、感じない、だからビオを助けようとしているわけですね。


ビオもそれを承知だから、その子供達が成長したときに純真なままでいられるのか、差別の心を芽生えさせずにいられるのか、地球人とメイツ星人が仲良くしようという気でいられるのか、それを見極めてからということでリュウとの握手を拒否した、そう読み取る事も出来るんじゃないかなと思います。


それにしても園長先生の「勘違い」じゃあメイツ星人からの「遺産」とは純粋につながらないわけで、そこにもう一解釈加える必要が生じると思うのですが・・・・・。


なんてつらつら書いたけど結論はわかんない!


わからない地点で、失敗とまでは言わなくても今回の作品が諸手をあげての成功だったとは言えないのですが、なんか惜しいなぁ・・・・・・と思いますね。
もう少し演出を変えるか、前後2回にしてもう少し時間を使って丁寧に話を進めるかすれば文句なしに良い作品になったんじゃないかな、という気がしますね・・・・・。


あ、でも雨の中の闘いは良かった。



追記

見直してみて重大な見逃しに気づいたああああああ


最後、園長先生のナレーションで良少年は「その人の姿はいつのまにか見えなくなっていました。病気で亡くなったとも長い旅に出たとも聞きましたがはっきりしたことはわかりません」と言われているのですが、その直後、夕焼けの空に星が一つ輝いているんですね。


これは単純に良少年が円盤を掘り当ててメイツ星へ行ったかも・・・・と示唆しているわけですね。
さぁこれを作品にどう解釈すれば良いのだろう?色々考えられますね・・・・。